残-ZAN-  第四夜 灰色の風 



3.狂える月




月は好きだ。
私の嫌いな暗闇に光を与えてくれるから。
ここへ来てから、本当にそう思うようになった。
太陽みたいな派手さも温かさもないけれど、美しくて柔らかくて私は好き。
けれど満月の夜の、昇りたての月は嫌い。
不気味なほどに赤く染まるあの瞬間は、どうしても血を連想してしまう。
それは普段の姿とはまったく別の様相を見せるから。
光と影を併せ持つ月。
光に隠れた影の部分は……嫌いだ。



もやもやする気分を引きずったまま、私は一人、日の差し込まない回廊をとぼとぼと自室へ向かって歩いていた。
太陽はもう完全に姿を現しているというのに、遮光のガラスで覆われたこの城の中はやはり肌寒く薄暗い。
血塗れで微笑む男の姿が、そしてその傍らに音も無く積み重なった二つの灰の塊が、何度も何度も頭をよぎっては消えていく。
ふいに立ち止まり、溜め息を吐いて、冷たいガラスの向こうの太陽を仰いだ。
普通なら肉眼では見る事の叶わない太陽の姿がくっきりと見て取れた。
光を殺すガラスのおかげで。
しばらく空を見上げてから、再び城内に視線を戻した。
何故か勝手に歩き出した足は、自室とは別の方向を目指す。
ヴァンパイアもドールも皆寝静まってしまったのだろうか。
静寂に包まれたこの空間は、時すら止まってしまっているかのように錯覚した。
気が付けば、庭園へと繋がるロビーまで下りていた。
いくつかのソファが置かれたそこは、夜になると談笑するドールやヴァンパイア達で賑わいを見せる。
だが今はやはり人の姿はなく、ひっそりと一時の静けさを取り戻していた。

「……はぁ」

出るものは溜め息ばかり。
あの訳の分からない出来事ですっかり目が冴えてしまった。
きっと今日は眠れない。
そう思いながら、一番近くにあったソファの一つにゆっくりと腰を下ろした。
そしてそのままぼんやりと小さなシャンデリアのぶら下がる天井とにらめっこする。
キラキラと輝くクリスタルの欠片達が瞳の中で踊っていた。
その瞬間だけが無心になれる一時。

しかしその静寂はすぐに破り去られてしまった。
足音が近付いてきたのだ。
誰が来たのだろうと背後に目を向ける。
そしてその姿を認めて、私は大人しく自室へ帰れば良かったと少しだけ後悔した。
やって来たのはヘヴンリーだったのだ。
陽の高い時分ゆえにその両目は綺麗な青で彩られていた。
誰もが振り返りそうな見目麗しい青年。
それはシードの面々にも負けず劣らずといったほどに、高貴な雰囲気さえ纏っている。
だが私はヘヴンリーが苦手だった。
この男の醸し出す得体の知れないオーラがどうにも恐ろしくて仕方がない。
ロイズハルトやデューンらシードに反抗する勢力の筆頭だからなのだろうか。
この男には一瞬たりとも隙は見せられないと、身体が無意識に固まってしまうのだ。
今もまた然り。
爪が食い込むほどに両手を握り締めてしまっていた。
それなのにヘヴンリーは至極澄ました顔をして、何故か私の向かい側に腰を下ろした。
ソファに深く身を沈め、同時に胸の前で腕を組む。
しかしながらずっとその目は私をじっと見つめたままだった。
いや、見つめていたと言うのはあまり相応しくない表現だったかもしれない。
だってヘヴンリーの顔に浮かんでいるのは決して気持ちの良いとは言えない笑顔だったから。
何かを企んでいる者が放つ目の輝きが、私をその場に縛り付けていた。

「……何か用?」

じっとこちらを見ている割には何も言い出そうとしないヘヴンリーに痺れを切らして、やむを得ず自分から声を掛けてみた。
しかしヘヴンリーは相変わらず笑いながら私を見ているだけで何も答えない。

「……」

うざ。
うざいんだけど、と言ってしまいそうになったところをぐっと飲み込む。
するとヘヴンリーは突然前置きもなく核心に触れてきた。

「お前見たのか? ルイが殺(や)るところ」
「……は?」

言っている意味が解らずに、私の思考回路は聞き返したままの状態でしばし停止する。
ルイが……殺った?

「……どういう事?」

意味が解らない。
それなのに声が震えた。
ヘヴンリーが軽々と口にした言葉の内容が重過ぎて、声が震えた。
それでもヘヴンリーは笑っている。

「さっきの悲鳴。ルイの傍らに灰の山があっただろ? 俺の考えが間違っていなければ、あれはヤツのドールだな。……ヤツが殺した……な」
「……なに言って……?」

私はそれだけを言って、再び固まった。
この男、何を言っているんだろう。
さっきから。
ヘヴンリーの話す内容の一つ一つが突拍子もないことだらけで、私の頭はますます混乱する。
目の前の男は一体何を言っているんだろうと無理やり理解しようとして、混乱する。

「言ったまんまの意味だよ。てかアンタもしかして知らねぇのか? ルイの悪いクセを……」

さらに私を煽るかの様に、ヘヴンリーは意味有り気にニヤリと笑った。
それに気付かない私は、ヘヴンリーのペースに飲み込まれていく。

「クセ?」

今さっき初めてルイという男を見たという私が、その男についてどれだけの事を知っているかなんてわざわざ聞かずとも分かりそうなものなのに、このヘヴンリーという男はそれを予め踏まえているのか、ニヤニヤと笑って私が眉をひそめる姿を楽しんでいるようだった。
一体どうしてこんな話を私にしてくるのだろう。
そう思いつつも、私は複雑に掻き回された脳内を必死に整理しようともがいた。
ヘヴンリーが発する言葉の端々には私の……と言うより聴き手の興味を煽る様な一言が散りばめられているのだ。
その全てを戯言と片付けてしまうにはあまりにも内容が重過ぎるし、かと言ってすぐに受け入れられるほど甘くない。
私は彼の言葉に翻弄されていた。

「クセで人を殺すような男なの? ルイって」

この場から離れようとしても、私の中の好奇心がヘヴンリーの話を聞かせろと暴れ回る。
だから私は考えるのを止めて、ヘヴンリーにそう尋ねてしまっていた。
話に喰い付いて来た私に満足したのか、ヘヴンリーもまた身を沈めていたソファから身を乗り出すと、一層深まった青い瞳をさらに私に近付ける。
そしてこう言ったのだ。

「あの男はな、発作的にドールを殺すクセがあるんだ。それも興奮が最高潮まで高まった瞬間にな。だからヤツのドールは命を落とす確立がやたら高い。それがお気に入りとなればなるほど……な」
「……まさか……」

俄かには信じられない内容に私はただただ息を呑むのみだった。
まるで何でもない事の様に話すヘヴンリーが、別の世界の者に見える。
どうしてそんな事を、そんな顔で話せるのか分からない。
どうしてそんな風に笑っているのだろう。
しかしヘヴンリーの話は私の心中に構わず進んでいく。

「女の悲鳴が明け方や昼に聞こえた時は、ほとんどルイが殺っちまった時だ。その度にヤツのベッドは灰に塗れ、その身体は血に塗れる」
「……でも……それなら何で誰も騒がないの? そんな事が起こっているのに……何で……」
「ここに暮らす者からすれば、日常茶飯事の出来事の一つに過ぎないのさ。初めはその事実に恐れ戦いてもすぐに慣れちまう。思えば恐ろしいところだぜ、ココは」
「……」

ヘヴンリーの言う言葉を全て信用したわけではないけれど、そう言えばいくつか思い当たる事をレイフィールが言っていた覚えがある。
あれは確か、エリーゼについて私がシードの三人に尋ねた時だ。
私の捜している者がルイのドールかもしれないとの話に、レイフィールは密かにその話だけは間違いだと良いのにと言っていた。
さらにルイのお気に入りであれば命がどうとか……とも。
その先を塞いだのはロイズハルトであったが、あの後に続く内容がもしや今のヘヴンリーの話と繋がるのではないか。
そう思った途端に心臓が痛いくらいに伸縮を始める。

今朝見たルイの傍らには、二つの灰の山があった。
女の悲鳴。
灰の塊。
ドールとして死した者はヴァンパイア同様に灰となる。
その事実がつま先から脳天まで一気に駆け上る。

……痛い……。
心臓が痛い。

掻きむしる様に左胸に手を当てた。
突き破りそうなほどに鼓動する心臓が、しばし忘れていた言葉を思い出す。

――エリーゼってあのルイのお気に入りのドールでしょ?

無邪気に笑うレイフィールの口からは確かにそんな感じのセリフが放たれていたはずだ。

エリーゼ。
ルイのお気に入り。
ルイのお気に入りのドールは命を落とす確率が高い。
それはルイが……。
ルイが、発作的にドールを殺すから……。

目の前が一瞬にして真っ暗になった。
そして体全体が心臓になったかの様に私を揺さぶる。

「すべての……ドールが殺されるわけじゃ、ないんでしょ……?」

ようやく絞り出した声は震えて、上手く伝えられない。
それでも私は縋る様にヘヴンリーを見上げた。
冷ややかな青い瞳が私の姿を映しているのが見える。
しばらくヘヴンリーはそのまま私をずっと見つめていた。
何も言わずにずっと。
けれどその後僅かに視線を逸らすと、わざとらしく咳払いを一つして、そしてまた私に向き直って言った。

「そりゃまぁな。毎晩毎晩てわけじゃねぇけど、数ヶ月に一度……くらいは」
「……そんなに……」

痛い。
……痛い。

エリーゼと言うドールは無事なんだろうか。
ただそれだけが気になった。
よもやすでに殺されてしまったなどと言う事にはなっていないだろうかと心が騒ぐ。

「ねえ……エリーゼってドール……知ってる?」

気が付けば、口が勝手にそう尋ねていた。
よりにもよってヘヴンリーに。
けれどこの際そんな事はどうでも良い。
とにかくあのドールの安否が気になるのだ。
居城に常駐していないヘヴンリーが、たかだか他人のドールをいちいち把握しているわけがないと思いながらも、私はどこかで期待してしまう。

「ああ……」

その問い掛けにヘヴンリーはしばし窓の外の空を見つめた。
知らないと言われる事には慣れている。
慣れているけど、その口が開かれる瞬間はやはり期待してしまうのだ。
そして同じくらい緊張もする。
知らないと言われる事は平気だ。
慣れている。
だから……大丈夫。

「エリーゼ……」

ヘヴンリーの唇が姉の名を紡ぐ。

大丈夫。
平気だ。

私は静かに目を閉じた。





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