残-ZAN- 第四夜 灰色の風 | ||
2.ある夜の出来事 たとえば“それ”に気付かなければ、或いは何か変わっていたかもしれない。 良くも悪くも。 あの夜に。 ――全ては悲鳴から始まった。 「エルフェリス様、お加減いかがですか?」 「うん、もう全然平気! 心配かけてごめんなさい」 「まったくですわ。しばらく無茶は禁止でしてよ」 「はーい。……てか別に無茶なんかしてないんだけどなぁ」 「してます! この城にいらしてからずっとご無理をしていた気がしてなりませんでした。お疲れが出たのですわ」 そう言ったリーディアが淹れたての紅茶の入ったカップを差し出す。 私はそれをやや訝しげな気分で受け取った。 熱い湯気に立ち上る林檎の香り。 私はリーディアの淹れてくれる紅茶が大好きだ。 甘くて香りも豊かで、ほんの一時現実を忘れさせてくれる。 そんな優しい温もりが、この紅茶にはあるから。 飲み込んだ後の鼻を抜ける林檎の風味が忘れられない。 「あー美味しいね! 天気のいい日に庭園で飲めたら最高だろうなぁ」 「淹れるだけならいくらでも淹れて差し上げますわ。お供は出来ませんけれど」 私が無意識に呟いたセリフに対して、リーディアはくすくすと苦笑しながらそう切り替えした。 その言葉に私は少し自分の発言を後悔する。 また無神経な事を言ってしまったと思って……。 リーディアはハイブリッドヴァンパイア。 陽の元に出た途端に、その身を焼かれてしまうのに。 「ごめんリーディア。私ったらついうっかり……」 口元を軽く覆いながら謝罪する私を、リーディアはキョトンとした顔で見つめていた。 「何故謝るんですの? エルフェリス様にとっては当然に思う事ですから、私に気を使う事なんてないのですよ?」 「うん……でもさ……」 「気にせずご自分らしく生きている方が、エルフェリス様って感じがして私は好きです。それに互いに互いの欠点を気にしていては真の共存など出来ませんわ。エルフェリス様は人間。私はヴァンパイア。でもはっきり言って生活時間帯が異なるだけの事ですわ」 両者の違いなんてたったそれだけの事だと、リーディアは明るい笑顔でそう言ってのけた。 「そ……そうだよね! そうだそうだ!」 あっけらかんとしたリーディアに私は何故かとても感化されて、不自然な同意を繰り返した挙句、慌ててカップに残っていた紅茶を飲み干した。 口から喉に広がる香りはやはり甘い。 幸せの溜め息が出た。 「そう言えばエルフェリス様、ルイ様にはもうお会いになりましたの?」 間抜けな顔で至福の溜め息を吐いている私に構わず、リーディアはふと思い出した様にそう尋ねてきた。 それに対して私は小さく首を振る。 「まだなんだよね。一度わざわざ訪ねて来てくれたらしいんだけど寝込んでた時でさぁ……」 「まあ、そうだったんですか。ルイ様も帰ってくるなり色々お忙しいみたいですし、少し勿体無かったですわね」 そうとは言ってもリーディアはその後すぐに、また明日にでも訪ねてごらんなさい、と微笑んだ。 実は私もそう思っていたのだ。 だからもちろんそうするつもりだと、笑って頷き返した。 けれど。 ルイとの初対面はその後すぐに実現する事となる。 何とも言えない衝撃を伴って。 それは夜も明けるか明けぬかという頃。 森の中で目覚めた小鳥達のさえずりが聞こえ始めた頃。 「ぎゃぁぁぁぁぁぁああッ!!」 身を切り裂かんばかりの悲鳴が、静まり返った居城内に響き渡った。 「なにッ!?」 ヴァンパイア達と同じ様にまどろみかけていた私はその叫び声に一気に現実に引き戻される。 そして咄嗟に飛び起きた。 そのままベッドから駆け下りてカーテンの引かれた窓辺まで走ると、勢いよくカーテンを開けた。 「は……」 朝焼けの空が暗い室内を赤く照らし出す。 それを見つめる私も恐らく、赤を纏っている。 けれどそれだけで、特に変わった様子は見受けられなかった。 「?」 外部の異変でないとすると、あの声はこの城のどこかからか響いてきたのだろうか。 訝しげに思いながらもカーテンを閉める。 その後自然に足は部屋のドアへと向いた。 ノブに手を掛けつつも、耳をドアにぴたりとくっつけて外の様子を窺う。 やはり不審な物音は聞こえなかった。 「……空耳?」 思わず自分が聞き間違いをしていたのだろうかと疑ってしまいたくなるほどに、静まり返った城内。 恐る恐るドアを開けて、それでも確かな一歩を踏み出した。 ドアを閉める音ですら、余韻を残して響く。 そんな中注意深く周囲に視線を巡らせると、回廊の少し先を歩く者の姿が目に入った。 足早に私のいる場所から遠ざかっていくあの後姿……。 「ロイズ?」 自分にも聞こえるか聞こえないか程の小さな声でその名を呟く。 普段なら彼等は今頃眠りに就く時分のはずなのに部屋とは別の方向に向かって歩くロイズハルトの後を、私は反射的に追い掛けていた。 広くて冷たい回廊を足早に歩く彼の姿を見失わない様に、私は努めて足音を立てない様に小走りで付いて行く。 時には柱や物陰に身を隠しながら。 「……ってコレじゃロイズの事が気になるみたいじゃん……」 少し進んだところで本来の目的とはずれた行動をしている自分に気付いたが、ふと視線を逸らしたところで確かに前を歩いていたはずのロイズハルトの姿をすっかりと見失っていた。 「あれ? あれ?」 小さな子供でもないのに、ただそれだけなのに、ひどい不安に襲われた。 暗い回廊のど真ん中、迷子のようにキョロキョロと周囲を見回して、消えたロイズハルトの姿を捜す。 だがやはり見当たらないところをみると、この辺りの部屋にでも入ったのだろうか。 見れば随分とたくさんの部屋が並んでいるようだ。 だがここも私の自室と同じ最上部ではあったが、この辺りは足を踏み入れた事のないエリアゆえに、どこがどんな部屋なのか全く見当も付かない。 かと言って一部屋一部屋確かめる事も出来ないし、諦めて帰ってさっさと寝てしまおうと踵を返した。 しかしそこでまた再び身が凍る。 「ぎゃぁぁあッ!!」 すぐ近くでまた別の悲鳴が上がったのだ。 「!?」 本当にすぐ近く。 私の前に並ぶこのドアのどこかで、何かが起こっている? そうとなればこのまま引き返して眠る事などもう出来ない。 意を決してロイズハルトの消えた方へと一歩、また一歩と足を踏み出した。 そして一つ一つのドアの前で慎重に耳を澄ます。 すると一室だけ、僅かに室内の灯りを回廊へと漏らしている部屋がある事に気が付いた。 その光に吸い寄せられる様に、そのドアの前へと体が自然に動いていく。 ほんの数センチほど……ドアが開いていた。 ――そこでやめておけば良かったのだ、きっと。 やめておけば……あんな事にはならなかったかもしれない。 いや、それでも未来は変わらなかったかもしれない。 でも、そうとでも思わなければ私は……やりきれないのだ。 狂ってしまいそうになる。 覗きなどもちろん趣味ではなかったが、あんな悲鳴を聞いた後だけに気になって、気が付けば私はドアの隙間から室内を窺っていた。 とは言っても本当に細い隙間から覗くのだ。 ドアに密着しなければ覗き込む事も出来ない。 片目を瞑って、もう片方の目を凝らす。 灯りは点いているがどちらかと言えば薄暗い印象を受けるその部屋の奥に、何人かの人影が見えた。 どれも見覚えのある後姿ばかりだ。 間違いない。 あそこにいるのはシードの三人だ。 けれどその先にある“あれ”は何だろう。 ドクンと大きく心臓がうねった。 “アレ”は何だろう……。 そして“それ”を冷ややかな瞳で見下ろす男。 あれは誰だろう……。 思わず息を呑んだ。 裸の男の上半身が血に染まっていた。 けれどシードの三人は騒ぐ事なく、ただ静かにそれを見守っている様にも見える。 異様なその光景に、私は呼吸する事を忘れていた。 “あれ”は何だろう。 “アレ”は何だろう。 どうして? どうしてだろう。 あの夜見た、あの新月の夜に見たあの塊が、あの灰の山が脳裏を掠める。 灰の山。 ハイブリッドが崩れ落ちた……灰の塊。 その時だった。 「何してんだ? てめぇ」 背後から突然声を掛けられて、私は反射的に大きく振り返ってしまった。 その拍子に肩がドアとの隙間に入り込み、その扉がさらに開かれた。 近付きすぎていた事を後悔してももう遅かったのだ。 「誰だッ!?」 中の者達が気付かぬはずがない。 誰かの発した怒声が、私の身体をその場に縛り付ける。 そしてその時初めて、私の前にいた男の姿を確認した。 同時に新たな驚愕が襲ってくる。 「……ヘヴンリー……」 どうしてこの男がこんなところに……。 そう思っていると、今度は部屋の中から出てきたロイズハルトに声を掛けられる。 「どうしたんだエル。こんなところで……。それに……」 そこで一旦言葉を切ったロイズハルトは、私の頭越しに睨み付ける様な視線を向けた。 その先にいるのはもちろん、不敵に笑うヘヴンリーだった。 ロイズハルトの視線の意味を理解してか、ロイズハルトの言葉の続きを聞くまでもなく、ヘヴンリーは自分から口を開く。 「俺はただ通り掛っただけですよ。コイツがこの部屋を覗いていたから声を掛けてみたまでです」 変に動揺する訳でもなくヘヴンリーはしれっと答えると、口の片側だけを吊り上げてにやりと笑った。 だがロイズハルトはヘヴンリーの回答に満足した様子はなく、至極冷めた瞳を向けるのみだった。 こういう時に見せるロイズハルトの瞳は、本当に冷たい。 深く煌めくアメジストの光が、怖いくらいに相手を射抜くようで……。 その間にデューンとレイフィールも姿を現した。 二人ともやはり様子だけならいつもと同じだ。 私一人が底知れぬ畏怖に無意識ながらも身を震わせている。 「私はお前にここへの進入を許可した覚えはないが?」 しかしそんな私に構わず、ロイズハルトは彼の視線の先にいるであろうヘヴンリーに対してそう言って牽制する。 けれどもそんなロイズハルトの言葉にヘヴンリーは、鼻で笑う様に小さく息を吐いた。 「悲鳴が聞こえたんですよ。万が一の事があってはまずいでしょう?」 「ふん、万が一の時はまずお前を疑ってしまいそうだな」 挑発的な態度を見せるヘヴンリーに、ロイズハルトも秘めたる威圧のオーラを纏って応戦する。 だがヘヴンリーは再びフンと鼻を鳴らすと、開け放たれた室内を一瞥した。 そして意味有り気に笑ったまま、ロイズハルトらに恭しく一礼をしてみせる。 「大変失礼を致しました。どうやら過激な内輪揉めだった様ですね。では御前失礼」 棘の残る物言いに、その場にいた者全ての表情が一瞬変わった。 だがそれを大して気にした様子もなく、当のヘヴンリーはさっと身を翻すと振り返る事なくその場を立ち去ろうと足を踏み出す。 私はそれを視点の定まらないままの状態で漠然と見つめていた。 けれどふと我に返った瞬間に、シード達の目が自分に向いている事に気が付いて、私はまたその場で固まってしまった。 ……どうしよう。 この場にいる事をどう説明しよう。 頭の中はそれでいっぱい。 「エル」 名前を呼ばれただけで、身体が震えた。 去り行くヘヴンリーの足音と、自らの鼓動の音が、鼓膜を激しく刺激する。 そして彷徨う視線の先で、半身血塗れの美しい男が柔らかく微笑んでいた。 月の様に……美しく。 「エル。何でもないからお前も戻ってゆっくり休め。目が少し赤いぞ?」 この場にいる理由を問い詰められるのかと思いきや、ロイズハルトはそう言って笑うと、くしゃっと私の頭を撫でた。 その大きくて冷たい手の感触に、苦しいほどに鼓動していた心臓がみるみる静まっていくのを感じた。 けれど腑に落ちない。 何でもないとは……そんなわけあるはずない。 何でもないわけがない。 あの悲鳴は? あの灰の塊は? あの男が血塗れなのは? どうしてなの? 処理しきれないほどたくさんの疑問が頭の中を掻き回す。 けれど何故かシードの三人は私に有無を言わせる隙すら与えてはくれなかった。 「送ってあげられなくてごめんね?」 宝石の様な瞳をキラキラと輝かせるレイフィール。 「後でまた添い寝しに行くからなー」 そう言って悪戯っぽく笑うデューン。 そしてそんなデューンに対して容赦ない蹴りをかますロイズハルト。 ……何かが全て変だった。 いつもと同じ光景なのに、いつもは感じない違和感。 けれど私がそれを口にする前に三人は部屋の中へと戻って行った。 そして扉が閉ざされる。 「おやすみなさい。エルフェリス」 寸前のところで、血塗れの美しい男がそう言って笑っていた。 それが私とルイとの出会い。 歯車が回り出す。 歯車が……回り出す。 next→ 残-ZAN- top へ |