残-ZAN-  第三夜 偽りのドール 



3.リーディアの過去




「見てはいけない夢を見ているのですわ。カルディナも……他のドール達も……」

何かを想い出すように呟いたリーディアの瞳から色が失われていく様な錯覚を覚えた。
彼女の目に映る景色も、或いはどこか別の場所を映しているのではないか。
そんな印象すら受ける。
けれど私は思うのだ。

「ドールだって一応は人間だもん。夢や希望くらいあるよ」
と。

しかしリーディアはゆっくり顔を横に振る。
「いいえ、ドールとなった者は期待や希望など持ってはいけないのです。だって……ドールは人であって人で在らざる者。人形なんですもの」

リーディアらしからぬ発言に私は少なからず衝撃を受けた。
そんな事は無いと言おうとした口がうまく開かず、呆然と立ち尽くすばかり。
人であって人で在らざる者。
確かにドールは人間であって人間ではない。
ヴァンパイアに改造された身体はもはや人間のものとは言い難い。
例え致死量に値する血を抜かれようとも、ドールは生き続けるのだから。

「血の契約を交わしたって……人の心は失くさないよ」

私のからからに渇いた喉をようやく通り抜けた言葉は掠れていた。
記憶は失くしても、心は失くさない。
生きているのだから。
人間にもヴァンパイアにも心があるように、意思があるように、ドールにだってそれはあるはずだ。
それなのに、リーディアは尚も否定するように首を振る。
切なく微笑みながら。

「もちろん心は生きています。心は自由。人としての記憶は失っても……。だから厄介なのですわ。いっそ心もリセットして下されば……」

伏せた紅い瞳が大きく揺れたのを私は見逃さなかった。
そしてその言葉の意味も。
私は……何も言えなかった。

「エルフェリス様。私はドールでしたの」

リーディアが笑う。
泣くように哂う。
ああ、やはり。
彼女も人間だった。
人間だった。

「今のカルディナはあの頃の私と同じ……」
「……同じ?」

ようやく反応した私に柔らかく微笑んで、彼女は頷いた。

「ロイズ様に一番愛されているのは自分だと。……あらぬ夢を……」

自嘲の笑みを浮かべながら、リーディアは遥か向こうで誰かと語らうロイズハルトに背を向けた。
心なしか、その指先が震えていた。
もともと気の利かない私には、かける言葉も見当たらない。
ただただリーディアとロイズハルトの姿を交互に眺めることくらいしか出来なかった。
複雑で言いようの無い気分に戸惑っていたのだ。
特定のヴァンパイアと“血の契約”を交わした人間はドールとなる。
このくらいの知識はあったけれど、これまでヴァンパイアと接触すら持ったことのない私がその詳細心理を知り得る訳がなく、多少混乱していたのかもしれない。
ドールとなる者が後を絶たない理由も、血の契約がどのような物であるのかも、実際は意外と知られていないのだから。

ひとまず私はリーディアの手を引っ張って庭園内を移動すると、群衆から少し離れた茂みの中に並んで腰を下ろした。
リーディアの話を聞いていたら、カルディナに対する怒りも一緒に沈んでしまった。
人形扱いされても、それでもヴァンパイアにしがみつこうとするドールを理解出来ない。
けれど何故か切なくて苦しくなる。
心をリセットしてくれだなんてセリフは、悲しすぎるドール達の現実だ。
心を失くしてしまったら、その者は存在意義すら失ってしまうというのに。

「私はもともと商家の娘でしたの。遥か彼方まで広がる青い海がとても美しい街でした」

突如人間であった頃の話をし始めたリーディアを私はじっと見つめた。
彼女は星の煌めく空を仰ぎ、大きく息を吸い込んでいる。

「あの頃はまだヴァンパイアと人間の間に境界など無くて、夜毎どこからともなくやって来るヴァンパイアの影に怯える日々でした。私ね、こう見えて意外と箱入り娘でしたの。実家は裕福で、両親はとても厳しい方でした。いずれはこの家に相応しい殿方をお迎えして、家を継ぎなさいと……ずっとそう言われて育ちました」
「なんか分かる気がする。リーディアの気品は半端ないもん」

思わずくすくすと笑いが込み上げてきて、私はリーディアにそう言った。
彼女の綺麗な言葉、優雅な物腰、どれを取っても溜め息が出るくらい美しい。
自分が恥ずかしくなるほどに。

「まあ、そんなたいそうなものではありませんわ。けれどね、エルフェリス様。私はそれでも、彼らへの好奇は捨てられなかったのですわ」
「好奇?」
「ええ。箱の中にいればいるほど、箱の外に興味を持つものです。私は愚かにもヴァンパイアというものを一目見てみたいと思うようになっていたのですわ。そしてある夜、ついに家を抜け出して、街外れの廃墟と化した教会に身を隠して外を窺ってましたの。ちょうど今と同じ様に」

そう言うと、リーディアは茂みの隙間からロイズハルトを指差し、オリーブ色の瞳と真っ赤に染まった瞳を同時に細めた。
まるで少女のように。

「その教会付近ではヴァンパイアが出るという噂があって、私は居ても立ってもいられなくなりました」

本当に愚か。

そう言って夜空を見上げるリーディアには、ヴァンパイアの面影など感じられなかった。
むしろ人間であるかのように錯覚した。
ヴァンパイアはあまり過去を懐かしがらない。
永劫の時を生きるヴァンパイアにとって過去など幾らでも修正出来る、再現できるものなのだから。
その逆に人間は有限の命であるが為に日々後悔の連続だ。
何かをしては、ああすれば良かった、こうすれば良かったと悔やみ、それでも更なる高みに憧れて。
そしてまた後悔するのだろう。
自分には到底手に負えないものであったと。
けれども時にそれが案外いい思い出になったりもするのだから不思議だが。

――リーディアは……悔いているのだろうか。
人を捨てた事を。
こっそりとリーディアの顔を窺う。
いいや、そうではない。
彼女は決して悔やんではいない。
だってリーディアはいつだって眩しいほどに輝いているから。
私にはそう見えるから。

「初めてロイズ様をお見かけした時は、本当に息が止まりました。離れていても感じるその存在感と威圧感に圧倒されました。それから毎晩私は家を抜け出しては廃屋へ通い、ロイズ様のお姿に心をときめかせる様になりました。愚かな事だと分かっていながら私は……あの方に惹かれてしまった……」

夜空を仰いだままのリーディアは、そこまで語ったところでふと目を閉じた。
頭上で輝くあの月の光を拒むかのように。

「だから……ドールになったの?」

今までずっと口を挟んだらいけないような気がして黙っていたが、ふいの沈黙に私は思わずそう訊ねてしまった。
するとリーディアはひどく切ない表情のまま、何度か頷く。

「偶然、他の女性の首に顔を埋めるロイズ様を見てしまったのですわ。その途端に胸が締め付けられてどうしようもなかった。掻き乱される心が痛くて、あの方のお傍に居たいと強く思いました。それからすぐ、廃屋でロイズ様に見つかってしまって……」

どうやら毎晩毎晩顔を出すリーディアにロイズハルトが気付いていたようだと、彼女は言った。
声を掛けられてそれはそれで驚いたものだと、無邪気に笑う。
そりゃそうだろう。
憧れの人が突然目の前に現れたら私だって驚く。
けれどリーディアは相手がヴァンパイアでも全く恐怖は感じなかった、そして自ら望んでドールとなったのだと、私に明かしてくれた。
どうして私などにそこまで話すのか疑問に思っていると、彼女もまたそんな私の心中を察したのか、もういつものリーディアの顔で華やかに微笑んだ。

「不思議です。エルフェリス様の前だと自分に素直になれます。人を捨てた私にも神はご慈悲を与えて下さるというのかしら」
「神はどこにだって誰にだって平等だよ。……私はあまり信用してないけど」

人間が聞いたら、これが聖職者の言葉かと叱咤されてしまいそうだが、実際私はあまり神を信じてはいない。
だって神は、私の願いを聞いてはくれなかったから……。
そんな私の台詞に、リーディアは綺麗な手のひらを口元に当てる。

「まあ、ホホホ。ですからね、私もドールとして生きた身。カルディナや他のドールの気持ちも解らなくはないのです。ドールとなった以上、やはり主である方にとっての特別な存在となり得るのですから。その中で互いに寵を競い合い、更なる特別な地位を得るというのはドールにとって最高の夢だと信じられてきましたわ。けれどその先には何もありませんでした。ただただ……絶望するのみでしたわ」

もう過ぎ去った昔話だとリーディアは笑っていたが、私にはどうしても彼女が泣いているようにしか見えなかった。
それに絶望なんて言葉は好きじゃない。
出来れば聞きたくなかった、そんな言葉。
けれど自らの人生を、記憶を犠牲にしてまでロイズハルトに尽くした彼女にとってはまさしく絶望の未来が待っていたのだろう。
ヴァンパイアからすればドールなど使い捨ての利く便利な道具に過ぎないのだから。
リーディアにかける言葉を探して、私の視線は何度も何度も宙を彷徨った。
けれど思いつくものはどれも陳腐で在り来たりで、とても口に出来るようなものではなかった。

「たとえ儚いものでも、ロイズ様の“一番”になれて幸せでした。でもロイズ様は他のドールに対しても変わらなかった。結局、あの方にとって“一番”など存在しないのですわ。ロイズ様は私達を平等に愛してくれた。けれど決して心は下さらなかった。それを悟ってすぐ、私はロイズ様との契約を破棄したのです」
「……それでハイブリッドに? 人間に戻ろうとは思わなかったの?」

私の問いかけにリーディアはまた切なそうに苦笑する。

「人間に戻るには、遅すぎたのですわ」

何もかも……。
リーディアはそう呟いて、また目を伏せてしまった。

遅すぎた。
彼女がどのくらいの間ドールとして生きたのかは定かではないが、恐らくはもう、帰る場所を失ってしまったのだろう。
ドールとなった瞬間に、その者の時は止まる。
成長も、命の灯火も、全てがドールとなった瞬間で留まり続けるのだ。
それでも人間なればこそ、どこかで命の終わりは突然やって来るらしいが。

「ロイズ様をお慕いしておりました。心の底から。けれども今は、あの方の愛を期待などしていません。お傍でお仕えさせて頂くだけで幸せだと思えますの。私も成長しましたわ」

くすくすと笑顔を見せるリーディアに私は無言で頷く事が精一杯だった。
なんて波乱な人生を歩んでいるのだろうと改めて思う。
好奇心の果てにロイズハルトと出会わなければ、彼女はここまで激動の人生を歩む事などなかっただろう。
けれど私達が知らないだけで、彼女と同じ様に運命の渦に巻き込まれてしまった人間はきっと果てしなく多い。
ヴァンパイアはいつも私達人間の運命をいとも簡単に破壊していく。
それでも同じ時を生きる者として、共存への努力を続けてきた。
たくさんの涙と悲鳴を飲み込みながら。
この世界の行き着く先は一体どこなのだろう。
白み始めた空と、輝きを失い始めた月に、一筋の祈りを託した。





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