残-ZAN-  第二夜 三つの思惑 



5.光と闇の接点




知らなければいいことなんて生きている上では幾つもあって、いちいち覚えていられない。
聞かなければ良かった、知らなければ良かったと思っても、時が経てばその内忘れてしまうだろう。
人間の記憶なんて物は実に曖昧だ。

私が眠りに就いたちょうどその時、神父の姿はロイズハルトの部屋にあった。
偶然か必然かは知らないが、私とはどこかで入れ違いになったようだ。
私はもちろんこの場でどんなやり取りがあったのかは知らない。
けれどこの神父とロイズハルトの密談が、この先の私の運命を大きく揺るがすものであった事だけは間違いない。

「司祭までどうしたのだ?」

苦笑混じりのロイズハルトが頬杖を付いて、向かいに腰掛ける神父をじっと見据えた。

「今日は来客が多い。先ほどもエルフェリスの訪問を受けたばっかりだ」
「おや、さすがはエル。すみませんね、誰に似たのか向こう見ずなところがあって」
「ふふ、それも良いだろう。用件は彼女と同じか?」
「ええ、まあ。半分ほどは」

神父はそう言うと、いつものあの笑顔でくすくすと笑った。
しかしそこには幾らかの厳しさも混ざっていて、それは……神父が何かを秘めている時に見せる表情によく似ていた。

「ふ……ん。では残りの半分とやらをお聞かせ願おうか」

赤い液体の入ったグラスを傾けつつ、ロイズハルトは神父に続きを促した。
神父が僅かに苦笑したのは、その液体の中身を変に誤解したからなのだろう。
グラスからは甘い葡萄の香りが仄かに立ち上っている。

「話というのは他でもないエルフェリスの事なのだが……エルをここに置くという話、考えてみては下さらぬか?」
「……何故? もちろん生身で預かれと言うのであろう?」

グラスを弄びながらロイズハルトが苦笑する。
一方の神父もまた、自身の前に差し出されたワインを一口含み、にっこりと微笑んだ。

「生身でなくては意味が無いからね」

神父のその言葉に、ロイズハルトはダークアメジストの瞳を青く輝かせた。

「……ゲイル司祭。薄々感じてはいたが……あのエルフェリスという娘……、あの時の?」

核心を突くかのようなロイズハルトの言葉に、神父は微笑んだまま無言を貫き通す。

「答えぬという事は、肯定と受け取って良いのだな?」

じっとロイズハルトを見据えるだけで、一向に返答する様子を見せない神父に対し、ロイズハルトはそう問いかけた。
すると神父は笑みを浮かべていた顔を一変させ、普段見せないような鋭い光をその瞳に宿して頷いた。

「やはり、貴方の目は誤魔化せないようだね、ロイズ。その通り、エルは紛れも無くあの時の娘。だから尚更ここに置いて欲しいんだよ」

神父の話を聞きながら、ロイズは理解できないと何度も何度も首を横に振る。

「何故だ? 例えあの娘が白魔法使いだとしても、我々シードの前ではただの獲物だ! それにあの娘がハイブリッドの手に落ちてみろ……我々シードはおろか人間だって存続が危うくなるかもしれないんだぞ!?」
「だからだ! だからなんだよロイズ! 安全であるはずの地域で人が喰い殺されるのは何でだと思う? もはやハイブリッドには境界など関係ないからなんだよ。エルのような白魔法使いの存在はハイブリッドからすれば目の上のたんこぶだろう? 今よりもなおハイブリッドが反抗をし続ければ、最前線にある私達の村は真っ先に襲撃されてしまうかもしれない。例え私といえども命を落とすかもしれない。エルだって……!」

眉間に深く皺を寄せ、身を乗り出して神父は叫んだ。
大袈裟に話を膨らませているわけではなく、近い将来現実となり得ることだ、と言わんばかりに。
ロイズハルトも黙って話を聞いていたが、しばらく思案した後、短く「むう」と唸った。

「だが司祭。彼女がハイブリッドにとって特別な存在である事は我々二人以外誰も知らないんだ。万が一、襲撃なんて事になっても、ヤツラは構わず彼女を殺すだろう。ここにいるよりはリスクも少ないのではないのか?」

そして改めて神父に問う。
ここはあくまでヴァンパイアが住まう領域なのだ。
生身の人間が到底暮らしていける場所では無い。
しかし神父は何故かその問いかけに対しても否定する。

「いいえロイズ。初めは私もそう思っていた。けれどね、実はエルにも言ってはいないのだが、少し引っかかる事があってね……」
「引っかかる事? 秘密を知るようなヤツがいるとでも?」
「いえ、秘密は漏れていませんが……、或いは……」
「ふん。思わせぶりな発言だな。私にも話せない事か」
「断言出来ない状態ではね」

ようやく笑顔を取り戻した神父であったが、意味深な言葉の中身を一切見せようとはしなかった。
ここまで重大な秘密を共有する自分にも話せないような事が、彼らの暮らすあの小さな村の中にあるのだろうかとロイズハルトは疑念の目を向ける。
だが何かを疑ったところでエルフェリスに襲い掛かる脅威を振り払えるわけではないのだ。
殺されるだけならまだしも、ハイブリッドに“あの秘密”を知られてしまう事だけは、ロイズハルトも神父も同じ様に阻止しなければならない事だと思っている。

「前線の村から遠ざけるという選択肢も無いのだな?」
「ありませんね」

きっぱりとそう言い放たれて、ロイズハルトの顔に苦い笑みが浮かんで消えた。

「ここには下手なハイブリッドは入って来ないし、あなたが正式にエルを客人として認めて下されば、いかに反抗心をチラつかせるハイブリッドといえども容易に手出しはしないだろう。……いかがか?」

神父の言葉に、ロイズハルトはしばし沈黙する。
浮かんでは消えていく様々な事柄を想定しながら。
時を刻む柱時計の音だけが、規則的に響き渡る。

「こちらとしても責任は取れない。それにこの事を知っているのは私一人。デューンやレイフィールが万が一エルをその牙にかけようが制止は出来ない。それでもいいのだな?」

だがやがてロイズハルトは深い溜め息を吐くと、黒革のソファにゆっくりを身を預けて言った。

「もちろん。エルとてそれは十分承知しているはず。……と言っても彼女は他の事で頭がいっぱいで、死ぬ気などこれっぽっちも無いだろうけど」

頭の中で必死にもがく少女の姿を想像しながら、神父はくくっと微笑んだ。

「ならば少しは安心する。どうせ限りある命なら、こんな事は知らないまま一生を終えた方があの娘にとっても良いのだろう。彼女が飽きるまでの期間で良いのだな?」
「ええ。恩に着ますよ、ロイズ」

ソファから身を浮かせた神父は、一度ロイズハルトに向けて深々と頭を下げた。
そしてそのまま回廊へと繋がるドアを静かに開けたが、そこで何かを思い出したように振り返った。

「……そうだ。ルイはお元気か? 今回は姿を見かけなかったが?」
「ああ……。いつものようにどこかほっつき歩いてるんだろう。またそのうち訪ねさせよう」

片手でグラスを弄ぶロイズハルトもまた思い出したかのようにそう言うと、神父はにっこりと微笑んで再び外へと足を向ける。

「そうしてもらえると嬉しい限りですね」

その言葉を残して、神父は一人部屋を出て行った。



去り行く彼の姿を座ったまま見届けたロイズハルトは、グラスに残ったワインを一口で飲み干すと、再びソファに深く身を預けて「エルフェリス……か」と呟いた。
そして揺らめくダークアメジストの瞳を天井まで泳がせると、ぶら下がるシャンデリアの灯りをしばらく眺めて、――目を閉じた。

自分の力では脈を打てない心臓が、どくどくと音を立てているような錯覚にしばし浸る。
どうやら今日は眠れそうにない。
この身と心がやたら騒いで仕方がないのだ。
ロイズハルトは無言で立ち上がると、彼もまたどこかへ向かう為に自室のドアを開けた。

そこで一瞬、呼吸が止まった。

一歩外へと踏み出したところで見慣れたデカイ図体が視界の端に入ったのだ。
先ほどまでの神父との密談を聞かれていたのではと危惧したのか、ロイズハルトの瞳から一瞬の光が発せられる。

「……いつからそこに?」
「い・ま」

まるで緊張感のない返答に、人知れずほっと胸を撫で下ろす。

「何の用だ?」

それから平静を装って一応聞いてやるが、ヤツは決まってこう言うのだろう。

「なーなー、ロイズ。ダメ?」
「しつこいぞ、デューン」

ほら思った通りの答えだと、ロイズハルトは心の中で苦笑した。
そして視線を動かすことなく歩き出す。
すると壁に背を預けていたデューンヴァイスも身を起こすと、がしっとロイズハルトの肩に腕を回してきた。

「いいじゃん、ロイズ。オレ、エルに興味あんだよ。あんな面白いヤツ滅多にいないぜ?」
「ふん、随分と熱心だな。……惚れたか?」

ロイズハルトの瞳が悪戯に細められる。

「バーカ、違ぇよ! オレが言ってんのはそういうことじゃないの!」

ロイズハルトの肩をポンポンと叩きながら、デューンヴァイスは至極楽しそうに笑った。
この男がこんな表情をする時は、決まってとんでもないような事を言い出す時だ。
今回は一体何を感じ取ったというのだ?

「じゃあどういう事だ?」
「よく訊いてくれた! あいつドールみたいに媚びないし、やたら攻撃的であんなヤツ見たことないだろ? 面白いと思わないの?」
「ほう、お前Mだったのか、知らなかったな」
「オレはいつでも攻めまくりだっつーのっ! ってかそうじゃなくて! アイツは人間ぽくないって言ってんの! 聖職者のくせにどこか擦れてる感じがするし、それに……」

そこまで言うと、デューンヴァイスは一度言葉を切った。
黙って聞いていたロイズハルトの瞳が不審の色に曇る。

「……それに……?」

慎重に、しかし出来るだけ冷静に先を促す。
するとデューンヴァイスはロイズハルトの肩に回した腕を一旦解き、その腕を今度は口元まで持っていって、ふうと息を吐いた。

「これはオレの思い過ごしかもしれねぇけど……」

そう前置きするデューンヴァイスのその顔に、意味深な笑みが宿る。








「エルフェリス。アイツ……血の臭いがしねぇ」








その瞬間、一面の闇で彩られた城内を一陣の風が通り抜けた。





第三夜 偽りのドール へ

残-ZAN- top へ