残-ZAN-  第一夜 招待状 



3、麗しの案内人




月明かりは時に迷える者への道標となる。
だが新月である今夜は逆に、果てしない暗闇に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥った。
手を伸ばしてもそこにはやわらかな光で輝く月は存在しないのだから。

今日が約束の日。
村中一切の外出を禁じられた中、深淵の闇に紛れてその使いはやって来るのだ。
教会の者も皆、早い時間から神父と私を残してふもとの村へと降りて行った。
三者会議に参加しない者は誰も、使者の姿さえ見る事も叶わない。
それすらも盟約違反となるからだ。
だから誰も彼もがそれを恐れて、朝早くから家中の窓を分厚いカーテンで隙間無く覆い、住人は息を潜めて夜が明けるのを待ち続ける。

今、ここには神父と私の二人だけ。
やたらと静まり返った空気が妙に重く圧し掛かって少し息苦しい。

「怖くはないか? エルフェリス」

ふいに神父が声を掛けてきた。

「別に……」

対する私はやや遅れて素っ気無くそう答えた。
その答えを聞くや否や、神父はくすっと笑みを零した。

「そうか……。ここを出たら生きて帰れる保証は無いからな。お前のたっての頼みとは言え、私は今、お前を同行者として選んだ事を深く後悔しているよ」
「ふふ。神父は“娘”には甘いものね」

わざとからかうように私が言うと、神父はバツの悪そうな顔で苦笑した。

「大切に育てた娘だからね。せめてお前にだけは無事でいて欲しいんだよ、エルフェリス」

目尻に刻まれた皺が一層深みを増す。
思えばこの神父、リーゼン=ゲイル司祭もこの数年でだいぶ老けた。
歳はエリーゼよりも少しばかり上で、まだ四十にはなっていないはず。
だが、それでもやはりエリーゼが失踪してから一層、彼の自慢の肌艶は失われてしまった。
気付かぬうちに髪にも白い物が随分と混じり始めている。

ヴァンパイアに対して絶対的な交流力を持つこの神父は、人間とヴァンパイアの狭間でいつも、両者にとって一番良い共存方法を模索し続けてきた。
それ故ヴァンパイア……特にシードからの信頼が最も厚い。

「シードはともかく、今はハイブリッドの行いは目に余るものがあるからね。用心するに超したことは無いだろう」

神父の言葉に思わずドキッとした。
ともかくって何だ、ともかくって。

「これからヴァンプの中心に飛び込もうとしてるのに脅さないでよ!」
「おや? 怖くないんじゃなかったのか?」
「う……うるさいなぁ!!」

痛いところを突かれて思わず声を張り上げたその時、何処からともなく風が舞い込み、室内を照らしていた全ての灯りがふっと消えた。

「!?」

何事かと驚いて、私はとっさに神父の腕にすがり付く。
一瞬で辺りを包み込んだ闇が酷く恐ろしく感じた。

「大丈夫。迎えの使者がいらしたようだよ」

私の肩を優しくさすり、いつもの優しい声で神父が囁く。
すると途端に早鐘のように鳴り続けていた鼓動がゆっくりと落ち着き始めるのだから、不思議だ。
神父の声には天使が宿っているんじゃないかと本気で思う。

「行くぞ、エル」

私の手をしっかりと握り締めながら、神父は教会のドアをゆっくりと開け放った。
連日降り続いた雨が作り出した水溜りが時折黒く光を放つ以外、特に何も変わらない風景。

だが一つだけ違う。

「お待ちしておりました」

外にはすでに黒いフードに黒のマントをまとった人物が二人、じっとこちらを見据えて立っていた。
その後ろには漆黒の馬二頭がひく漆黒の馬車。
一面の黒の中にも繊細で美しい装飾が施され、それは何故か夜の闇の中にあっても一際異彩を放っていた。
二つの影は私達に向かって一礼すると、深く被ったフードに手を掛けて、ゆっくりとそれを取り外した。

「うわ……」

そこにいたのは思わず溜め息が出るような美しい女と男。
両者とも片目が真っ赤に染まっている。
それは他でもないハイブリッドの証。
夜になるにつれて片目だけ赤く染まる……ハイブリッドの大きな特徴だ。

「リーディアと申します。リーゼン=ゲイル様、そしてエルフェリス様、私が責任を持って会期中の警護をさせて頂きたく存じます」

そう言ってから再度一礼をすると、ハイブリッドの女リーディアはすっと身を引き、後方に留めている馬車の扉を開けた。

「どうぞ。足元にお気を付け下さいませ」

そして私達に馬車へ乗るよう促す。
もう一人のハイブリッドの男は御者台に上がると、再びフードを被り直し、黒い手綱を握り締めた。

私と神父は一度だけ顔を見合わせると、互いに大きく頷いて、馬車へと足を踏み入れた。
リーディアは私達が乗り込むのを待って、自らも車内に入る。
そして内側からしっかりと鍵を掛けた。

「シードの居城まではどれくらいかかるの?」

彼女が椅子に腰掛けるのを待って、私は問いかけた。
いきなり尋ねられた事に対して少々面食らった顔をしていたが、リーディアはすぐに柔らかく微笑んでみせる。

「夜通し馬を走らせても一晩はかかってしまいますわね」
「一晩?! 途中で朝になるじゃない!」
「まぁ、ほほほ。私達の身を案じて下さるのですね。でも大丈夫。途中からは日中移動用の暗道がありますの。そこなら私達も足留めをされる事なく動くことが出来ます。夜明け前には十分辿り着けますわ」

リーディアはそう言うと、にっこり微笑んで軽く頭を下げた。
それから車窓へと視線を走らせると、そのままゆっくりと息を吐く。

「この辺りは随分と景色が良いのでしょうね」

自然と口に出たようなその言葉も表情も、どこか遠くを見るようだった。
何故か彼女の顔に、姉エリーゼが重なる。

「私はもう太陽の美しさを忘れてしまいましたわ……」

赤く染まった瞳と共に馬車も大きく揺れて、私と神父の耳には彼女が囁いたその言葉が良く聞こえなかった。
けれどそれは彼女がかつて人間であった事を暗に指し示していたのである。





それからしばらく私は黙ったまま流れていく景色を眺めていた。
暗道に入ってもところどころ景色を望める箇所があり、私は一人車窓のカーテンから顔を出して初めて見るヴァンパイアの世界に軽く興奮していた。
ヴァンパイアの領域自体はあまり私達人間のそれと変わりはしない。
住む家も街の構造も。
それがヴァンパイアの街なのだと知らなければ、私はきっと普通に降り立ってしまうだろう。

違いといえば、日の高い時間帯には誰もいないといったくらいだろうか。
それだけでも異様といえば異様なのだが、見ている分には違和感はさほど感じなかった。
だがやはりあちらこちらに転がる死体が目に付いて、何度も何度も目を逸らしたのもまた事実だ。

ヴァンパイアは日の光に弱い。
だから日中は当然表には出て来ない。
それを利用して日中ヴァンパイアの領域に足を踏み入れる人間も少なくはなかった。
日が完全に沈むまでにその領域外に出れば良いのだ。
だが、ほんの僅かな判断ミスで狩られる人間も同じように少なくはない。
道中見かけた骸は恐らく、夜になっても領域を出ることが出来なかった者達の抜け殻なのだろう。

エリーゼもすでにどこかであのような姿になっているかもしれない。
丸腰のままヴァンパイアの中に飛び込んで行った愚かな姉。
生きている確立の方がどう考えても少ない事は分かっている。
だがもしそれが事実となって目の前に現れた時、私は同じ様に目を逸らしてしまうのだろうか。
それとも限りなく冷静にそれを見つめるのだろうか。

胸が、苦しい。

「あら? エルフェリス様、あまり顔色がよろしくないようですが……」

隣で眠る神父を起こさない様に声を潜めて、リーディアが私の顔を覗き込んだ。
今はまだ陽のある時分なのだろうか、彼女の瞳は綺麗なオリーブ色に輝いていた。

「……大丈夫。ちょっと考え事をしていただけです」
「そうですか。ですがお疲れでしょうし、城に着きましたら早急にお部屋でお休みになって下さいませね」
「……ありがとう」

私は人間なのに。
彼女はハイブリッドなのに。
今一番対立している存在なのに。

リーディアは何故、私の事を心配してくれるのだろう。





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