残-ZAN-  第一夜 招待状 


第一章 招待状



1、消えた姉




いつも思い出すのだ。
この灰色に淀んだ空を見ると……。
けたたましいくらいの雨の音を聴くと……。

「エルフェリス。私、シードヴァンパイアに逢ったの」

限りなく美しくて限りなく誇り高いシードに……。
そう言って、忽然と消えた姉エリーゼを。


もう何年も前の話だ。
私は確かまだ十歳にも満たなかったかもしれない。
一方の姉エリーゼはあの頃すでに二十歳近かったと思う。
私達姉妹は歳がかなり離れていて、両親のいない私にとって姉は、姉であると同時に母親のような存在でもあった。

その姉が、私を置いて何処かへ消えた。

あの時も分厚い灰色の雲が空を隠して、突き刺さるような大粒の雨が地上の音を掻き消していた。
ひどい雨が続いていて、誰も彼もがうんざりしていた中、一日だけすっきりと晴れたあの日。
確かエリーゼは一人、私達の育て親である神父の御使いで朝早くから出かけて行ったのだ。

「今日はいいお天気で嬉しい」

そう言って。

だが姉は日暮れ時になっても帰っては来なかった。
夜になるとあちらこちらでヴァンパイアが徘徊し始めるというのに、だ。
使いを頼んだ神父も、昼前には終わる用事であるはずなのに何故、とうろたえていた。

やがて再び重い雲がさっと広がり始め、再び雨音が辺りに鳴り響くまでそう時間は掛からなかった。
かび臭いような湿った臭いと、次第に近づいてくる雷鳴に、幼かった私は神父にしがみついたまま震えていた。
こんな暗い暗い雨の中、一体姉エリーゼは何処を彷徨っているのだろうかと。

全身ずぶ濡れになった姉が帰ってきたのは、それからかなり経ってから、夜もどっぷりと更けた頃だった。
出掛ける前のはつらつとした表情とは打って変わって、ひどく複雑な顔をしていたエリーゼは、帰るなりばったり倒れてしまった。
驚いた神父や村人は姉をベッドに寝かせた後、誰かが呼んできた村医者に診てもらったが、全身の掠り傷と手首の痣以外は何も異常は無いと、そう言われた。

けれど手首の痣は子供心にも底知れぬ畏怖を感じたことを覚えている。
蒼というよりもどす黒く鬱血したその痣は、どう見ても人の手の形をしていたのだ。

その場にいた誰もが戦慄を覚えたと後々言っていた。
あれだけの痣になるとは余程の力で握り締められたのだろうと。
よく掠り傷だけで戻って来られたと。
それほど姉の細白い手首に残された痣は尋常ではなかったのだ。

無事に戻ってきた訳ではあるが、誰かに襲われたのならその犯人を特定せねばならない。
そう考えるのはこの世の常だろう。
親である神父を筆頭に、村長や村人、何処からか噂を聞きつけたヴァンパイアハンターまで、毎日毎日誰かしらエリーゼの元を訪ねた。
だが誰に何を聞かれようと姉は一切口をつぐみ、答えることを頑なに拒んだ。
そしてようやく起き上がれるようになったその数日後、あの言葉だけを残して人知れず姿を消してしまったという訳だ。

あれからもう十年近く経つ。
あの頃のエリーゼと同じくらいの歳になった私がいる。
明るくて村一番の器量良しと謳われた姉には程遠いが、それなりに大人になった私がいる。
神父に倣ってヴァンパイアに対抗できる白魔法も習得した。
れっきとした聖職者となった今、多少の無茶ならば恐れるに足りぬ。

荒野に出てって行方知れずの姉を探すことも――。

「また外を見ているのか?」

ふいに背後から声をかけられた。
振り返らずとも声の主は分かっている。

「いつからそこにいたの? デストロイ」

だからあえてわざわざ視線を動かすこともないだろうと、前を見据えたままそう言ってみせた。
すると短く笑う声と共に気配が近づく。

「やっぱお前タダ者じゃねぇな、エル」

私の前に回り込むようにして壁に背を預け、男が笑う。
やはりデストロイだ。

「ハンティングに出掛けたんじゃなかったの?」
「ああ、取り止めだ。三者会議の前でさすがのヴァンプも警戒してるみたいでな。俺達も迂闊に手を出せないって訳さ」
「ふっ。らしくない台詞」

私がそう言うと、デストロイもまた複雑な苦笑いを漏らした。
幼なじみでもあるこの男のことは決して嫌いではないが、ヴァンパイアハンターという職柄のせいか、どこか血生臭い気がして、狩りから戻った後などは特に接触を持ちたくはなかった。

「何人殺したの?」
「さあな。……いちいち覚えてない」

姉と同年代であるこの男はここ数年の間に名うてのハンターとなっていた。
一度狩りへ出掛ければ名のあるヴァンパイアを次々と仕留め、ヴァンパイアから最も恐れられているハンターの一人としてその名が広まっている。
彼をそこまで有名にさせたのも、おそらくは姉エリーゼの失踪が発端なのだろう。
デストロイはエリーゼに想いを寄せていた。
あの頃、最も姉に近かったのはこの男だ。
エリーゼがヴァンパイアを追って行ったのでは……との話に発展した後、彼はまるで修羅の如く次々とヴァンパイアを殺していった。
名高いシードから名も無きハイブリッドまで。

「外ばっか見てたってエリーゼは帰って来ないぜ?」

黙り込んだ私に声が掛けられる。
私の瞳に映るのは姉が消えて行ったであろう教会のドアと外界を繋ぐ長い下り坂。
左右を林で囲まれたその道は、昼は神々しく夜は禍々しい。
嫌でも姉の姿を重ねてしまうのだ。
去り行く後姿を。
だが……。

「別に心配してる訳じゃないよ。アンタと違って」

揺らめく木々がざわめく。
また嵐になるのだろうか。

「……薄情なヤツ」

しばらく間を置いて、デストロイが哂った。

そうやって哂うがいい。
私はエリーゼを心配していない。
彼女に対する心はこの数年ですっかり枯れ果てた。
自ら出て行った姉の為に、一体どれくらいの人が犠牲になったと思っているのだ。
何人が善意の捜索の果てにヴァンパイアに喰い殺されたと。

「薄情か……。そうかもね」

自嘲的な笑みを浮かべて呟く。
私の心は枯れ果てた。

「でもね、あたし決めたの」
「……何を?」
「エリーゼを捜しに行くわ」
「はぁっ!?」

突然の事に驚きを隠せないのか、デストロイは何度も何度も私に真意を尋ねてきたが、彼には目もくれず、私の視線は再び雨の降り注ぐ外の景色に向いていた。
エリーゼは必ず捜し出してやる。
心配しているからじゃない。

私はただ。

エリーゼの綺麗な顔を思いっきりぶん殴ってやりたいだけだ。





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