残-ZAN-  序章 



侵食。
侵食。

音も無く滑り込み、跡形も無く砕け散る。
この身は果てても奥底に渦巻くは黒い血の契約。
過去は全てモノクロームの世界に消え果てて。
未来は全て暗闇に覆い尽くされる。

いつの日か、あの月の様に再生を。
冷たく凍りついたこの指先に一握りの光を灯して。

それがただの儚き夢であろうとも――。




残-ZAN-




雨脚は一層強さを増していくようだった。
掘っ立て小屋のようなこのあばら屋ではところどころの雨漏りも致し方がない。
突然の雨から逃れるために駆け込んだだけだ。
空の気まぐれな天気さえ落ち着いたら、さっさと出て行くだけのこと。

それなのに先ほどから窓に打ち付ける雨に混じって稲妻が見え隠れするようになった。
どうやら今夜は大荒れになりそうだ。

それにしても一体どうなっているのやら。
ほんの一時前までは雲ひとつなかったはずなのに今ではこの有様。

「あーあ、ついてないなぁ……日没までには村に帰りたかったのに」

体中の酸素を吐き尽すかのような溜め息とともに肩を落とした。
あまりの晴天に浮かれて、つい遠出をしてしまったことを今さら悔やんでしまう。

「洗えば元の色に戻るかしら」

ふいに足元に目をやれば、泥まみれになったお気に入りのブーツが見えた。
鮮やかな赤い色が、無残にくすんでしまっている。

「どうしよう……」

薄暗くかび臭い小屋の中から、不気味に暗くなり始めた外の景色を呆然と眺めた。
不規則に響き渡る轟音と光が、不安そうに両手を胸の前で握り締める“彼女”の横顔を照らし出す。
その胸元に輝く十字のクリスタルはすっかり輝きを失っていた。

夜が怖い……。
彼女はふと心の奥底に底知れぬ恐怖を覚え始めていた。
確か此処はまだ“彼等”の領域でもあったはずだ。
夜に、“彼等”の領域で“彼等”に出くわしてしまったら……?
彼女は小さく震えていた。

その時、カタっと何かが動く音が響いた。
彼女は慌てて顔を起こし、辺りを小さく見回す。
目を凝らすと、小屋の奥の方でかすかに何かが蠢いているように見えた。

「!?」

身体の震えが一層強まる中、それはスッと立ち上がり、軽やかなステップでも踏むかのように彼女の前に姿を現した。
彼女の顔に明らかな恐怖が浮かぶ。

「すみません、驚かせてしまいましたね」

ふわっと優雅に微笑むそれは、目も眩むような長身の美青年であった。
少し着崩した白いシャツに黒のスラックス。
僅かな動作にもサラリと流れるプラチナの髪が、夜のベールに包まれ始めた世界の中にあっても柔らかな輝きを放っている。

まるで月の様だ。

「あの……」

突然の事に息を飲んだまま、先を続けられない彼女の言葉を制するように、目の前の青年は微笑んだ。
そしておもむろにこう告げる。

「ここは私達の領域です。出て行かれるのなら、早い方が良い」
「え?」

突如、彼女の顔から血の気がさっと失せていった。
まさかこの青年は……!

彼女は一歩二歩とおぼつかない足取りで後ろへ下がったが、ガクガク震える足はなかなか言うことを聞いてはくれなかった。
その様子を見て、微笑んだままの青年は少し困ったように窓の方へ視線を泳がせた。
それから細くて白い指先でそちらを示す。

「ほら、ご覧なさい。さっそく貴女を求めての来客ですよ? まったく“ハイブリッド”は良く鼻が利く」

彼女が恐る恐る青年の示した方に目をやると、一人の男が窓に張り付いて彼女を舐め回すように見つめていた。
その片目は異常なほど真っ赤に染まっている。

「きゃッ!!」

その姿に思わず悲鳴を上げて、彼女は身を竦(すく)めた。
途端、外の男はニヤリと嫌な笑みを浮かべ、握り締めた両の拳を窓ガラスに激しく叩き付け始めた。
中に入ってくるつもりなのだ。
薄いガラスはすぐに破られてしまう。
彼女は慌てて小屋の奥へと逃げ込んだが、青年はただその様子をやたらと冷めた目で眺めていた。
だが、すぐに大きな破裂音とともにガラスは突き破られ、赤目の男が小屋に侵入してきた。
不気味に笑ったまま舌なめずりをし、そして彼女の逃げ込んだ方に視線を向ける。
そしてあっという間に彼女の目の前に移動し、次の瞬間には恐怖でおののく彼女の細い左手首をつかんでいた。

「ひッ!!」

完全に顔色を失った彼女は言葉を紡ぐ事も出来ず、ニヤリと笑う男の顔を戦慄の眼差しで見つめる事しか出来なかった。
もはや身体は制御出来ない程に震えてしまっている。
逃げる事など出来そうにない。
完全に腰が抜けてしまった彼女はスローモーションのようにへなりとその場へ崩れ落ちた。

もうダメだ……!!

そう思って硬く目を閉じた瞬間、赤目の男が突然悲鳴を上げた。
同時に、彼女はつかまれた左手首に耐え難い痛みを感じて思わず目を見開く。
目の前には赤目の男の足がぶら下がっていた。

「え……?」

恐る恐る視線を上げていくと、先ほどの青年が男の首を片手のみで締め上げていた。
男の太い首に青年の細い指が喰い込んで、次第に男の顔色が青く変色し始める。
自分の腕に走り続ける痛みなど忘れてしまったかのように、彼女はその光景をどこか漠然と見つめていた。

そして、冷たく歪んでもなお美しい青年の表情(かお)に目を奪われていた。

「“シード”を前にして随分と不躾な」

その口元から零れる優雅な笑みとは裏腹に、青年の白い指は男の首をギリギリと締め付けていく。
呼吸すらままならない赤目の男の足が虚しく空中を蹴った。
何度も何度も激しく。
が、やがてしばらくすると全ての力を使い果たしたのか、男の身体は僅かな痙攣のあと弛緩した。

「もうお休みですか。ハイブリッドと言えども脆いものだ」

ククッと笑い、青年は軽々と男の身体を荒れた床へ投げ捨てる。
無造作に横たわった男の顔にはすでに生を感じることなど出来なかった。
真っ青に青ざめた彼女は、男の手形がはっきり残った左手首と男の顔を交互に見つめながらガクガクと震えていた。

「醜い跡が残ってしまいましたね」

片膝を付いて青年は彼女の左手を取ると、冷え切ってしまった彼女の手を包み込むように自らの手を重ねた。

「あの……」
「たとえ昼間は安全な場所でも夜になればこんなのザラです。少し無用心過ぎましたね」
「……ごめんなさい……」
「私に謝られても。とにかく一刻も早く此処を出る事です。……送って差し上げましょう」

ほう、と吐息を漏らして、青年は彼女に「立てますか?」と尋ねた。
青年の手を借りて彼女は何度も立ち上がろうと足に力を込めてみたが、先ほどの恐怖がまだ尾を引き、震える足が言うことを聞かなかった。
立てるかと思いきやすぐにぺたりと尻餅をついてしまう。

そんな事を何度か繰り返した後。

「やむを得ません。失礼」

言うや否や、青年は彼女の腰と膝裏にスッと手を伸ばし、ふわりと彼女の身体を持ち上げた。

「あ、あの」
「しっかり掴まっていて下さい。今日は特別な世界を見せてあげましょう」

火が出そうなほど顔を赤らめる彼女をよそに青年はそう言うと、荒れ果てた暗い廃屋のドアを開け放ち、未だ激しく降り注ぐ雷雨の中を彼女を抱いたまま踏み出した。





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