いつの頃だったろうか。 青いはずの空が、黒く濁って見えたのは……。 ――あれから僕は、死に魅入られている。 「シアンの眠り」 昼間でさえ薄暗い部屋。 虚ろな目を開け、ベットに横たわる。 それだけが僕の全て。 数年前、偶然紛れ込んだ闇市でそれを手に入れた。 生きることにほとほとうんざりしていた僕にとって、それは最高の美酒。 その日から、夜な夜な枕元に置かれた小瓶に手を伸ばした。 この手に収まるくらいの黒くて小さな瓶。 今日こそは、今日こそは……、そう思って、一体どのくらいの歳月が流れたんだろう。 僕の願いとは裏腹に、朝が来れば目が覚めた。 目の前で小瓶を振ってみた。 半分ほど残っている。 僕はコルクの蓋を開けると、それを一気に流し込んだ。 中身は……。 途端に激しい発作が僕を襲う。 息苦しい。 動悸が早まっていく。 「うぁっ……くっ……」 例えようのない苦痛に、僕はベッドの上でのた打ち回った。 それは、もう何度も味わっているはずなのに、一向に慣れることのない苦痛だった。 僕に死を与えてくれるだろう苦痛……。 今日こそは、僕に永劫の安らぎを与えてくれるだろうか。 視界がぼやける。 目がかすんできた。 あぁ、これで今度こそ……。 永遠への喜びに酔いながら、僕はゆっくり目を閉じた。 「死ねると思ってんのか? 甘いんだよ」 突然声がした。 驚いて目を見開く。 僕はもがき苦しみながらも、何とか顔をあげて声の主を探した。 ベットサイドに男が立っていた。 僕よりも少しだけ年上に見えるその男は、にやりと笑って僕を見下ろしている。 黒いフードを被り、その手には彼の身長以上に大きな鎌が握られていた。 鎌自体に埋め込まれている赤い装飾品が怪しく光る。 「……死……神……?」 思わず声が震えた。 僕の問い掛けに構わず男はその場に屈んで床に手を伸ばすと、散らばる黒い小瓶をひとつつかみ、僅かに残る液体を指で掬い取った。 赤い舌を覗かせてそれをぺろりと舐める。 「……へえ、シアン(青酸)か。こんなモンどこで手に入れたんだか知らないけど、ずいぶんと飲んだもんだねぇ。あ、俺、死神。よろしくな!」 そいつはそう言うと、足元に転がる小瓶を集めてひとつひとつ瓶を積み上げ始めた。 ――鼻歌を歌いながら。 「あんた……僕を殺しに来たんだろ? ……さっさとやれよ!」 「まーそう焦るなって。おお俺スゲッ! ほら見ろよ、10個達成! 天才じゃね?」 死神は、のた打ち回る僕をよそに、楽しそうに瓶を積んでいた。 積み上げた瓶が崩れるとまた一から積み直し、崩れては積み直し。 崩れる度に悔しそうな声をあげたが、何故かずっと笑っていた。 「苦しいか?」 ふいに問いかけられた。 かすむ目を凝らして、死神を睨み付ける。 けれど死神は僕とは視線を合わせずに、相変わらず楽しそうに瓶を積んでいた。 僕は精一杯の力を振り絞って叫んだ。 「致死量はとっくに超えてるはずだ……っ。何故だ……何故っ!」 「――死ねないかって?」 死神の声色が変わった。 瓶を積む手を止め、一転して冷たい表情で僕を見ている。 その顔に浮かんでいるのは、蔑み、哀れみ……。 「死ねるわけねぇだろ。俺がこの鎌を振り下ろさない限りは……な」 死神は愛しそうに鎌を抱き、喉の奥で小さく笑った。 それに同調するかのように、鎌の装飾が今度は蒼く輝いた。 「何故そんなに死に魅入られる? あちらにはお前の望む物など何もないぞ」 何もな……、死神はそう呟いてわずかに目を伏せた。 「この鎌がお前の魂を欲しがらない。だからいくら毒を含もうともお前は生き続ける。苦しみ続けるだけだ」 死神はそう言うと、僕の方に小瓶を投げてよこした。 僕は毒のせいで震える手を伸ばし、ようやくの思いで瓶を掴んだ。 「……死ねない? 何故? ――こんなに苦しいのに、僕は死ねないのか?!」 湧き上がる感情は、力の入らないはずの身体に力を与えた。 僕はシアンの瓶を握り締め、何度も何度も死神に問うた。 「ああ、死ねないね。この鎌重くてよー……面倒なんだよ。残念だったな。」 「っ……それはお前のエゴだっ!!」 僕は苦痛に顔を歪めながらも、渾身の力を込めて身を起こし、叫んだ。 だが、死神の凍りつくような眼差しは変わらず僕を突き刺す。 「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ。俺はこれまで星の数ほど魂を狩ってきた。神との契約とは言え、中には生まれたばかりのガキもいた。まだまだ死にたくないと叫ぶヤツもいた。俺はそういう人間の魂を狩り続けてきたんだ。……それがどういうことだかお前にわかるかっ!!」 突然、死神は語気を荒げた。 あまりの剣幕に、僕は完全に気圧されて絶句する。 無意識に呼吸すら止まっていた事に気付けるはずもなく。 「お前は贅沢だ。お前が持っているのは死への憧れじゃない。死への冒涜だ」 「違うっ!! 僕は……」 「何が違う! お前にはまだ時間が残されている。それを自ら断ち切ろうなど、冒涜以外の何ものでもないっ!!」 「違う……違う……」 それ以上言葉が続かなかった。 死神の、死神らしからぬ言葉は、確実に僕の心をえぐった。 刹那、激しい眩暈に襲われる。 「もう俺は行くぜ。次に逢う時は本当にお前が死ぬ時だ。――せいぜいそれまで苦しみ続けるんだな」 「ま……て……っ」 僕は死神を引き止めようと、去り行く死神の背中に向かって手を伸ばしたが、もはや身体の自由は奪われてしまった。 力なくベッドに倒れこむ。 なぜか涙が溢れた。 薄れていく意識の中で死神の囁く声が聞こえた。 「眠れ。」と……。 ――僕の意識は沈んだ。 死神の姿は、漆黒の闇の中にあった。 周りには何も存在しない、静寂の世界。 そこには音すら存在しない。 「魂を狩る者……か……。はは、俺も随分感傷的になったもんだな、死神の名が笑っちまう。……お前もそう思うだろう?」 死神はその腕に抱き締める死鎌に向かって、そっと呟いた。 その手には一本の赤い薔薇。 キラリと輝く鎌の瞳と同じ色だった。 「つまんねぇ幻想なんかにとり憑かれやがって……悔しかったらしぶとく生き抜いてみろってんだ。……お前の代わりに……な」 死神はそう言うと、闇へ向かって薔薇の花を放り投げた。 深紅の花びらが宙を舞う。 死神の頬を、色のない涙が伝って――落ちた。 ― END ― |
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